ボクがWATSUに出会ったのは、1999年のフロリダでした。

当時、フロリダ州パナマシティという小さな町でWater Planet USAのプログラムディレクターとして、野生のイルカと障害や不登校問題を抱えた子どもたちのセラピープログラムを主催していました。プログラムは野生のイルカと泳いだり、感覚統合療法の考えのもと、アートセラピーやマッサージ、ミュージックセラピー、運動療法などを組み合わせたものでした。

自分自身が野生のイルカと泳いで衝撃を受け、WATER PLANET USAの取り組みを知るようになり、これはどうしても日本の子どもたちにも提供したい!と思って、東京のサラリーマン時代に終止符を打って、単身フロリダに乗り込んで始めたことでした。


そのセラピープログラムの一環として、WATSUというアクアセラピーをやらないか?と参加していたベルギーのセラピストから提案を受けたのです。
そのセラピストからWATSUを受けて衝撃を受けました。

なんなんだコレは?

今までに感じたことがないような不思議な感覚。でもどこか懐かしい感覚。優しくて、自由で、愛おしくて、感謝の気持ちでいっぱいになるような感覚。しばらくして気づきました。自分が初めてイルカと泳いだ時に感じた衝撃と似ていたんです。もしかしたらイルカと泳ぐのに一番近いのがWATSUかもしれない、そう思うようになりました。

なぜイルカとWATSUが似ているのか。多分、イルカとWATSUを両方知っている人には、そう言われれば「なるほど」とわかってくれる人はいると思うんですが、言葉で説明するとなると、これがまた難しい。それにチャレンジしてみようと思ってこのブログを書き始めました。

イルカのセラピープログラムは、時に奇跡とも言えるような効果を子どもたちにもたらしていました。自閉症や学習障害などの発達障害を持つ子どもたちは、そういう自分の個性を受け入れてもらえない社会に対して非常にマイナスなイメージを持っています。二次的障害といわれる社会適応の問題が生まれます。イルカと泳いで発達障害が治るわけではありませんが、そうした社会適応力が劇的に改善されることがよくありました。特に障害といわれる特性を持っているかどうかは関係なくて、「自分の人生や対人関係に対して前向きになる」「自己有能感を持つ」「自分が受け入れてもらった被受容感を持つ」というちょっとした変化が起きることで、人は劇的に変われるものだということを毎週のように目のあたりにしました。

なぜイルカと泳ぐという単純なことで、そんな劇的な変化が起こるのか? なかなか一言で答えられませんでした。今でもよく分かりません。一緒に泳ぐというより、ほとんどの参加者はそんなに泳げませんから、実際は海に浮かんで水の中に顔をつけて、イルカが通りすぎるのを眺める、といった方が正確かもしれません。イルカに乗れるどころか、触れることもありません。特にイルカが芸をしてくれるわけでもありません。それでもボートに上がってくる子どもたちは、目をキラキラさせたり、興奮を抑えきれなかったり、恍惚状態だったり。それぞれのリアクションで懸命に自分の中で消化していきます。そしてふとしたきっかけで、今までの自分ではできなかったような言動をしはじめるのです。

なぜでしょう?

水の中は、身近な非日常だと思います。人間は、海でサメに遭遇するくらいなら、陸上でトラと遭遇するほうが生存率が高いと言います。それほど人間は、水中ではしょうもない弱小な動物だということです。何もしなければ溺れちゃう環境ですからね。と同時に、人は水の中で大いに癒されることも事実です。お風呂に入ったり海水浴をしたり。それは、古代から温泉浴とか、スパセラピーとかタラソセラピーという言葉で表現されてきました。癒しというのは、安心できる空間ではじめてスイッチが入る生理現象です。
ボクは個人的に「アクアティック・エイプ」といわれる人間の起源論を信じています。サルから人間に進化する過程で、何百万年かの間、水中生活に順応していた時代があったとする説です。海から上がった時には、すでに人間の形をしていたと言われています。そうした人間の歴史があるから、水の中で癒しのスイッチが入るのではとも思います。
いずれにしろ、水の中というのは、人間の中で矛盾するその2つの感覚が同時に起こる世界だと思うのです。
危険だけど自由。。。
安心して癒やされる。。。

そんな、陸上とはまったく勝手が違う水中に身を置いていると、向こうから野生動物がやってくるのです。その身体は大きく美しい曲線のフォルムをたたえ、しなやかで惚れ惚れするような身のこなしで水の中を自由に泳ぎまわります。微笑みをたたえるような顔つきをして、目には優しさと知性が感じ取れます。そんなイルカが好奇心や遊び心をいっぱいに自分をまっすぐ見てくるわけです。たいていの人は、水中で一番最初にイルカと出会った衝撃を一生忘れることができないことでしょう。
ボクはイルカを美化したがるタイプではありません。イルカには表情筋がないので、笑っていても怒っていてもあの表情です。ボクは一度、イルカ同士で口論をしている場に脳天気に泳いでいった時に、2頭のイルカからすさまじい威嚇をされたことがありますが、にこやかな表情はあのままでした。イルカもイルカで環境に適応して進化して、一生懸命自分自身の生き残りをかけている野生動物です。海の生態系の頂点に立ち、個性とコミュニティを大切にして生きる独自の世界観をもっている動物です。イルカが人間のために何かしてくれているとは思いませんが、人がイルカから受ける印象には特別なものがあると思います。

イルカと泳いでボクが感じるのは、あくまで自分の主観ですが、「受け入れられている」という感覚です。「つながる」という感覚です。それはその自分が泳いでいるイルカ1頭とだけでなく、その後ろにある自然界の生命の循環とつながっているような気持ちになります。個ではなく全体との一体感です。自分は大きなものの一部なんだということを、他の何からも感じたことがないほどの感謝の気持ちで感じることができます。心が開くということはこういうことか、と気づかされます。人によっては、同じ感覚を一本の大樹から感じるかもしれません。雄大な自然の風景から感じることもあるかもしれません。イルカもその一つなんだと思います。イルカが特別な存在という話ではなく、そういう体験を一生のうちに一回でも経験すると、それは人を大きく変えるパワーがあるものだと思います。

「自由」と「安心」

そういう感覚をボクなりに考えると、見えてくるのは「自由」と「安心」という2つの言葉です。
イルカとWATSUがとても似ているものに感じるのも、また、この2つが他のどんなセラピーとも似ていないことも、それが何なのか説明するにも、この2つのキーワードが必要な気がします。

自由というのは、依存していないということです。
依存があれば、拘束があります。そこは自由にはなりません。安定する分、不自由なわけです。
逆に依存がなければ、不安定です。でも自由です。
自由と不安定はコインの裏表のようなものだと思います。
一方、安心というは、やはり安定の中で生まれるものです。自由と安心というのは、一見、同時には得られない相反する感覚のように感じます。

ボクたち生命というものは、ずっとこの自由と安心の間を行き来しながら進化してきたんじゃないでしょうか。
生命は基本的に常に自由を求めて進化するものだと思います。依存しているものがなくなるのが怖くて、それを気にしないですむ自由という状態になりたくて、でも自分でできる範囲でしか自由ではないから、自分ができる範囲を増やそうと変化する。それが進化だと思うんです。進化というのはすべての生命に備わっている根源的な欲求です。でも、生命が完全に自由になることは永遠にないのです。宇宙で一人で生きていける生命はありません。だから進化は永遠に続くわけです。

生命という一つの大きな循環の中では、個々は自由です。でもその循環からは出られないという拘束があります。逆に言うと、その大きな循環の一部であるということは、安心感にもなるわけです。例え大自然の中で自由の身になったとしても、自分がひとりぼっちで他に心を通わせられる生命がいなければ、すごい孤独を感じると思います。すごく自由なのに、やばいと思うはずです。心を通わせられるものを探し出します。それは、自分の生存に関係なくてもいいんです。毎朝「よ!」っと声をかけられる鳥がいたら十分なんです。映画「ダンス・ウィズ・ウルブス」の狼だったり、「キャスト・アウェイ」のバレーボールだったりの存在です。生命はすべて、寄り添う他の生命を求める欲求をDNAレベルで持っているということを、社会生物学者のエドワード・ウィルソン博士は「バイオフィリア」という理論で提唱しました。その欲求を満たされると、「癒し」というご褒美をもらえるということです。

自由になりたい。でも、他のつながりを失わない程度で、いい塩梅のペースで自由に向かって進化したい。それが生命の根源的な欲求だと思うんです。

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ボクがイルカと泳いで感じた衝撃は、多分、コレを満たされた衝撃だと思います。もちろん、その瞬間にボクが進化したわけじゃありません。ボクが根源的にもっている欲求をくすぐられた感じです。でも、日常生活では自由と安心はそうそう両立できるものではないですから、くすぐられた程度でも「みんな自由なんだよ。それにみんなつながっているよ。」とイルカに教えてもらったような気になってしまうのです。

アホなのかもしれません。でもボクはこれでノックアウトでした。
これで会社をやめてしまいました。それからフロリダに飛び込んでからの5年間も、イルカと水中で会う度にこんな感覚になるのは、ずっと色あせることはありませんでした。

WATSUは?

というと、ボクの中ではこれと一緒なんです。
もちろん、あくまでボクの主観です。イルカと泳いでも、怖いと感じる人もいると思いますし、他の動物を見るのと何ら変わらないと思う人もいると思います。人はそれぞれ感じ方が違いますし、薬のように誰にでも効くという性質のものではありません。でも、WATSUを体験してくれた方の感想を聞くと、同じようなことを感じてくれたのかなと勝手に思うことがよくあります。

温かい水の中に浮いていると、だんだん筋肉の緊張がほぐれてきます。重力から解放されて、無意識に緊張しているような筋肉でも、ふわふわと緩んできます。そのうち自分の皮膚と水の境目もどこだか分からなくなってきます。自分の身体の中にある水分もさらさら流れているようにも感じます。頭ではいろんなことを思い出したり、夢を見ているかのようなビジョンが見えてきたり、突然感情が沸き上がってきたり、そのうちどうでもよくなって寝てるのか起きてるのかわからないようなぼーっとした状態になります。身体中の関節がいろいろ動いて、身体が自由になってきます。自分の身体の周りを流れていく水の流れが気持ちいい。ふと動きが消えた時に感じる自分の呼吸がすごく大事に感じたりもします。自分が意識的に、または無意識的に自分の身体やマインドを制御しているものがなくなって、自由でオープンな状態になっていきます。

こういう自由な状態は、「安心」だから可能になるものです。その安心感は、水と、セラピストから与えられます。セラピストという「個人」ではなく、「誰かがつながっていてくれている」という生命としてのつながりが安心感を感じさせます。どんなに優秀な機械がWATSUをしてくれてもこうは感じないと思います。逆にWATSUを知らない何の技術をもっていない人でも、浮かせてもらっているだけでものすごい安心感を感じて嬉しくなるようなこともあります。

WATSUも、「自由」と「安心」が同居する時間なんです。

水とつながり、人とつながり、自分の身体とつながり、こころとつながり、そのつながりの安心感が、自分を自由にしてくれます。

ボクはWATSUが大好きです。やがてそれをプロとして施術する側になり、インストラクターとしてプロを育てる側になり、WATSUを始めて10年以上経った今でも、WATSUの奥深さは計り知れません。どんなに潜っても底が見えないという気持ちです。

不思議です。水の中で起きることって。

でも、それは、水の力というわけでなく。
イルカの力というわけでなく。
WATSUの力というわけでもなく。
人間がもつ素敵な力なんだと思います。